事例から見る行動デザイン(ナッジ)手法

ANKR DESIGN
2022-05-11

行動デザインというトピックに最近注目が集まっています。

行動デザインとは、モノ主体ではなく相手の行動を主体にサービスを設計することで、人々の行動の促進および阻害原因の改善を行っていく手法のことです。

日本における「行動デザイン」という言葉の起源は、博報堂行動デザイン研究所が2013年に考案・商標登録した「造語」であるとされています。一方その定義を明確に記した文献はなく、会社や組織が各々ニュアンスの似通った主張はしているものの、極めて曖昧なまま扱われている現状があります。そうであるのにも関わらず、行動デザインという言葉が流行している背景には、「ナッジ」という概念の誕生が大きく影響していると考えられます。

ナッジとは、米国シカゴ大学のリチャード・セイラー教授によって提唱されたものです。セイラー氏のノーベル経済学賞受賞(2017)によって、この言葉は世間の注目を浴びるようになりました。ナッジの定義とはセイラー氏によると「選択を禁じることも、経済的なインセンティブを大きく変えることもなく、人々の行動を予測可能な形で変える選択アーキテクチャのあらゆる要素」とされています。簡単にいうと、「人のココロの癖を利用し、選択に影響を与えるような情報を提示する手法」です。本手法では、特定の選択肢を禁じたりするなど、人々に対しての強制は決して行わないというのがポイントです。

国内では行動デザインとナッジが混同されて使用されるシーンもありますが、行動デザインのためのひとつの理論がナッジであると捉えることもできるでしょう。

これまで学問の中では人間は合理的な存在として捉えられていました。例えば経済学では、人は経済的合理性に基づいて行動し、自己利益を追求する性質を持つという定義のもとに議論を始めています。ですが、人の行動はとても合理的に説明できるものではありません。痩せたいと思ったとき、適切な運動や食事をとり続ければ、すぐに痩せることができるでしょう。でも、痩せたいと思っても痩せられる人は多くはありません。人間の行動には心理的影響も関わってくるからです。「疲れているから、今日は筋トレをやりたくない・・・」「美味しい手土産をいただいたから、食べてしまおう」など、自分の感情に基づいて人は行動してしまうことだってあります。

そうした合理的ではない人間の行動のクセを理解し、それを悪用するのではなく、行動の文脈を提示したり状況を操作することによって、人をより良い方向に導こうとするのがナッジという手法です。

近年行動経済学・心理学といった観点から人間の行動を理解し、プロジェクトを設計するためにナッジ理論が活用されることが増えてきています。本記事では、そのような事例を3つ紹介します。また、それらの事例を踏まえて、行動デザインの要素を取り入れる方法についてヒントとなる視点についても提案します。

行動デザイン(ナッジ)の事例

【事例①はがきのメッセージの違いによる大腸がん検診受診率の向上】

参考事例:(株)キャンサースキャン

大腸がんは、日本人の死亡者数がとても多い疾患です。罹患率は年々増加傾向にあり、国としても大きな課題となっています。現在の医療をもってもがんの予防には限界があり、早期発見・早期治療が不可欠です。特に大腸がんにおいては、検便(便鮮血検査)を使用した大腸がん検診が有効で、毎年継続して受診することが有効と言われています。

そこで、東京都八王子市では前年度の大腸がん検診受診者に対し、本人からの事前申し込みはなくても年度始めに便検査キットを自動送付する取り組みを行っています。しかし、便検査キットを送付した対象者のうち、実際に受診に至る人は7割程度に留まっていました。そこで、キャンサースキャンは未受診の人を対象に、はがき送付による受診推奨を実施。以下の画像のように、はがきのメッセージをナッジ理論に基づき、2パターン作成し送付しました。

ナッジ理論に基づいて作成した2パターンのメッセージ
(出典:https://www.cancerscan.jp/approach/case02/)

簡単に言えば、パターンAは「今年度検診を受ければ、来年度も検査を受けられる」とお得感を訴求したもの、パターンBは「今年度検診を受けなければ、来年度からは検査を受けることができない」と損失を訴求したものです。実際に対象者に送付したところ、パターンAのメッセージを受け取ったグループに対し、パターンBのメッセージを受け取ったグループを受け取ったグループの方が受診率が7.2%向上するという結果になりました。すなわち、人々には損を訴求したメッセージの方が響くということです。

【事例②:医療施設内コンビニストアにおけるナッジを活用した食環境整備の試み】

参考文献:医療施設内コンビニエンスストアにおけるナッジを活用した食環境整備の試み

事例2つ目は、東京都台東区内の病院が運営するコンビニの食環境整備を行ったものです。職員の食生活の実態を把握するためにアンケート調査を行ったところ、職員の野菜不足と食塩の過剰摂取の可能性が示されたという結果が示されました。そこで、食事を購入されることが多いコンビニに焦点を当てて、食環境の改善を試みたという事例です。食環境の改善策は、 HNESの4領域(品揃え・商品の配置・情報の提供・価格の配慮)に対し、行動フレームワークEASTを用いて実践されました。具体的には、「飲料コーナーの商品構成を加糖飲料50%未満に抑制(品揃え)」「カップ麺を食塩量が少ない順に、目の高さから下方に陳列(商品の配置)」など9つの改善を行いました。

ナッジ理論に基づいて行った9つの改善
(出典:https://www.jstage.jst.go.jp/article/jfsr/27/4/27_226/_pdf/-char/ja)

結果として、医療施設のコンビニにおける職員の健康づくりを目的とした食環境整備は、ナッジを活用することにより職員に好意的に受け入れられ、コンビニの売り上げ増加にも寄与する可能性が示唆されました。このことから、行動デザインフレームワークに基づいた食環境の整備を行ったことは職員にとって効果的であったと言えるでしょう。

【事例③省エネ意識改善に最も効くメッセージ】

参考事例:日本オラクル社

最後の事例は趣向を変えて、海外事例を取り上げてみることにします。時代は遡り、2000年アメリカのカリフォルニアでは、夏の猛暑をきっかけに大規模な計画停電が行われていました。そのようにエネルギー事業が逼迫していたとき、省エネを促すための社会実験が実施されました。具体的には省エネを促すようなメッセージをいくつか作成し、各家庭のドアノブにかけました。家庭ごとに異なるメッセージがかかっているために、メッセージごとの影響度を評価できるというわけです。メッセージ例として「節約しましょう-エアコンを消し扇風機を」「環境に優しく-エアコンを消し扇風機を」「より良い未来のため-エアコンを消し扇風機を」が挙げられます。

実験結果をみてみると、先述した3つの省エネ促進文言はどれも効果を生みませんでした。目に見えて効果があったのは「ご近所さんは既にやっています」というコミュニティへの帰属意識を働きかけるようなメッセージ。本事例では地域など社会における帰属意識を訴求することで、人々は行動変化を起こしやすくなるといった知見を得ることができます。

作成・配布されたメッセージタグ
(出典:https://www.oracle.com/jp/corporate/features/pr/moe-nudge-project-oracle-utilities/)

ちなみに、この事例を皮切りにCO2削減など環境分野におけるナッジの活用が注目されるようになってきました。今回事例として紹介したものはヘルスケアや環境の分野でしたが、ナッジの適用範囲はどんどん拡大しています。その理由の1つとして、ナッジは「公共利益の拡大」を前提にしている点が挙げられます。持続可能な社会への関心が高まってきている中、ビジネスをいかに続けるかを追求する上では、企業活動においても公益性が不可欠なのです。ナッジとは、社会全体を望ましい方向へ導くための手段とも言えます。

行動デザイン(ナッジ)のヒント

ここからは紹介事例を踏まえ、行動デザインの要素の取り入れ方を見ていくこととします。前提として行動デザイン手法を用いるということは、「あるターゲットの行動を変化させたい」という思いがあることでしょう。そこで、まず誰にとってのどういった行動を変化させたいのかといった課題を明確にすることが大事です。紹介した事例でもそれぞれ「対象者の大腸がん検査受診率低下」「医療施設における職員の野菜不足と食塩の過剰摂取」「地域の電力不足解消」と、解決すべき問題を最初に明確にしています。

問題を明らかにしたあとは、それを解決する上でのボトルネックを踏まえ、人々を望ましい行動に導くための手法を設計していきます。ここでヒントとなるのが、行動デザインの理論・フレームワークです。これらは、現状における人々の行動のクセを理解し望ましい行動を促進するためのヒント・足掛かりになるものです。行動デザインやナッジと呼ばれるものには実に多種多様なものがありますが、それらはいくつかの類型に分類することができます。ここではその一部をご紹介します。

行動デザインのヒント①:損失の強調

事例①は「何かを得る喜びよりも失う痛みの方が2倍程度大きい」という行動経済学のプロスペクト理論を応用したものです。何かの行動を行わないことに伴う損失を強調した方が、人は行動変容しやすいといった傾向にあります。

行動デザインのヒント②:デフォルトの変更

事例②のように、初期設定を変更することで行動変容を促すといった方法もよく用いられます。他にも、職場の休暇制度促進を目的に、休暇取得を前提にすることで取得しないときだけ申請という形にするなどといった事例もあります。

行動デザインのヒント③:規範の明示

事例③は「同じような状況の他人がどのように行動するかを伝えることで、人は行動変化しやすくなること」を顕著に示しています。ここでの規範とは社会的規範のことで、人々は特定の集団や文化、社会に存在する暗黙のルールに従って行動することが期待されています。今回の事例では、「省エネ行動を行うべきである」といった社会のルールを「同じ地域というコミュニティに属するご近所さんの実践」の訴求によって明示していると捉えることができます。

ここで留意したいことは、ヒントをただ当てはめるだけではプロジェクトに必要なアイデア創出につながらないことです。先ほど述べたように、ここでのヒントとは人々の行動を理解し促進するための足掛かりとなるものです。ただヒントを乱暴に当てはめるだけではなく、いくつかの要素を組み合わせたり、取り扱う事例と親和性の高いヒントを探してみたりすることで、新しいアイデアを生み出すことができます。

以上が行動デザインの事例と活用手法の紹介です。ここで紹介した内容が、皆様のプロジェクトに行動デザインを取り入れる際の参考になれば幸いです。

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